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北辰一刀流 玄武館
公式ホームページ



新選組幹部の剣、北辰一刀流
新選組の母体、現在の東京都新宿区市谷柳町25番地にあった「試衛館(しえいかん)」。
そこには、近藤勇(後の新選組局長)、土方歳三(同じく副長)、沖田総司(同じく1番隊隊長)、斎藤一(同じく3番隊隊長)、井上源三郎(同じく6番隊隊長)、藤堂平助(同じく8番隊隊長)、山南敬介(同じく総長)らがいました。
うち、山南敬介、藤堂平助は北辰一刀流でした。




江戸三大道場の一つであった北辰一刀流玄武館
圧倒的に多かったからこそ、新選組幹部や坂本龍馬もその中にいた


坂本龍馬
北辰一刀流の創始者、千葉周作成政は文政5年(1822年)28才、日本橋品川町に玄武館道場を構え、北辰一刀流の看板を掲げました。
「北辰一刀流」とは、家流の北辰夢想流の北辰と、伊藤一刀斎の一刀流をあわせたものです。文政8年には、世にも有名な神田お玉ヶ池の道場を新築、居を移しました。 

門弟その数3,600余人、圧倒的な数の入門者はひきもきらなかったと言います。指導法は具体的で、組太刀と竹刀剣術を一致させ、構などもその時々で自由な構をとらせました。
古い因習にとらわれない柔軟な心と合理的精神は竹刀剣術の進歩にも貢献したことは有名です。
門弟の数の多さ、北辰一刀流の勢いを考えれば、山南敬介、藤堂平助らの後の新選組幹部や、坂本龍馬らがいたのも理解できるような気がします。

周作の子、道三郎がそのあとを継いだ玄武館は、関東大震災によって、広大な道場とともに貴重な遺品や極意書が灰燼に帰してしまいました。
3代目野田和三郎が武者修行をしている際に北海道小樽にて玄武館を復興しました。
しかし、戦争を境にして3代目は病没、4代目はシベリアに抑留され、5代目小西重治郎成之はパイロットとして戦野にあり、道場は閉鎖、土地建物は人手に渡ってしまいました。

その5代目の第5世宗家 小西重治郎成之は終戦後、昭和20年8月、現杉並区善福寺公園を野天道場として少年指導を開始。辛苦を重ねながら弟子達後援者の温かい励ましによって、現在の玄武館を確立することとなります。

父である5代目没後、6代玄武館館長として先人達の築いてきた北辰一刀流を守るのは、小西真円一之宗家。
千葉周作先生以来の名門の剣が新宿に戻ってきます。


北辰一刀流 玄武館
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かつて北辰一刀流を修めた、後の新選組幹部達の青春の地で


北辰一刀流 玄武館 館長 小西真円一之

戊辰戦争から150年。
北辰一刀流からすれば、幕末は新選組の山南敬介、藤堂平助、浪士組の仕掛人清河八郎、幕臣山岡鉄舟、御陵衛士(ごりょうえじ)となった伊東甲子太郎、そしてかの坂本龍馬と敵味方いりみだれて戦ったような時代でした。
しかし、皆共通していたのは、日本の将来を真剣に考えていた、ということでしょう。
北辰一刀流の剣の哲学が、人を活かす剣であることが、学ぶ人にものを深く考える習慣をつけるのだと思います。

私たちは千葉周作先生以来の玄武館を守っています。玄武館の剣術は殺人剣を活人剣の領域まで高める事をを目指しています。その剣術の心構えは、普段の生活にまで活用出来るようなものであるべきと思います。
かつて北辰一刀流を修めた、後の新選組幹部達が青春を闊歩したこの新宿で、私たちがその北辰一刀流の剣をふるえることが喜びです。
ぜひ当日いらしてください。




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